『ブラディ・カプリチオ』 〜序幕〜
レンガ造りの家、女神のレリーフと十字架が飾られている教会、そして街で最も高い建造物である時計塔。
闇の支配する空間で、しかしそれらの建物は青白い光に照らされ、冷たい彫像の群れにも見える。
光の源は空にあった。
闇夜を光で蹂躙する存在。
太陽に比べれば力は弱いが、星々の小さな輝きを押し退けて光を放つ『ソレ』は、間違いなく夜の支配者に相応しいだろう。
時計塔の平らな屋根。眼下を見渡せば街の全てを一望できるほどの高さに小さな影が1つ。
「……綺麗」
空に浮かぶ月を見上げ、影は愛らしい声で呟く。
幼い少女だった。
長く伸びた、漆黒の滝を思わせるような黒髪。
つり上がった黒い瞳。喪服のような黒装束を身に纏っているが、少女の肌はまるで蝋人形のように青白く見える。
そのコントラストが少女を1つの芸術品であるかのように仕立て、幻想的な光景を生み出していた。
少女の瞳は魅入られたように空の満月へと向けられていたが、不意に月の光が雲に遮られる。
地上を照らしていた光がたちまち闇に侵食されていく。だが、月の光が無くなっても少女の肌はなお青白かった。
顔色が悪いという次元ではなく、死人と大差のない肌の色は生気が全く感じられない。
ふと少女は目を閉じて微笑みを浮かべる。それはあたかも彫像が笑ったかのように無機質な笑みだった。
「……こんな静かな夜は滅多にありませんね。とても心が安らぎます。そう思いませんか?」
そう言って少女が笑みを浮かべたまま振り返ると、そこにはいつの間にか1人の若い男が険しい顔つきで立っていた。
喪服を身に纏う少女に対し、その男は教会の牧師が身に付けているような服装をしていた。
あるいは悪魔祓いを行う神官の服装にも近い。
だが、男が持っているのは聖書でも魔法の杖でもなく、ひと振りの剣だ。
「確かに貴様のような闇の眷属にとってはそうかもな……」
男の声には呪詛が込められ、少女を睨みつける瞳には明確な殺意があった。
「ならば、こんな夜に死ねることに対して感謝するべきだ。本来ならば、貴様はもっと無様で惨めな死に方をしなければならないんだからな。この悪魔め」
剣の柄を両手で支え、構える。男には目の前の少女を殺すことに何の躊躇もないようだ。
だが、少女は涼しい顔で男の殺気を受け止めている。不意に男に後頭部を向け、視線を再び前方の空へ戻すと、先ほど月が見えていた辺りを眺めながら呟く。
「以前から思っていたのですが……どうしてあなた方――エクソシストのお歴々は私を目の仇にするのです?」
「ふん……何を今更」
剣先を少女に向けたまま男は吐き捨てる。
「貴様がどれだけ生きてきたか知らないが、1度や2度死刑にしたくらいでは償えないほどの人命を奪っているじゃないか」
「あなたは何か勘違いをされていませんか? あれは『殺人』ではなく『捕食』ですよ。生きるために他の命を糧にしているだけです」
太陽の光を浴びて生命を育んだ植物を草食動物が糧にし、その草食動物を肉食動物が糧にする。
自分が行っていることはそれと同じであるのに何故、殺人者呼ばわりされなければならないのか。
「だとしても、貴様の場合は必要以上に栄養を摂り過ぎだ。それに、貴様に『捕食』された人間の肉親が貴様を恨むのは当然だろう」
そこまで言うと男は姿勢を下げて踏み込んだ。
剣が届く距離まで近付き、少女の背中に振り下ろす。
だが、男が薙いだのは少女の体ではなく、そこに漂っていた空気だった。
黒い少女の姿はどこにもない。
「こちらですよ」
背後からの声に男は振り返る。
まるで最初からそこに立っていたいかのように、少女が冷やかな視線を投げかけてくる。
「いきなり淑女に斬りかかるのが紳士のやることですか?」
「生憎だが、俺は紳士じゃないし、お前みたいな悪魔を淑女だなんて思ってない」
悪態をつきながら、男は再び剣を構える。
「悪魔とは失礼な言い方ですね」
「違うのか?」
「違いますよ。私は……」
不意に少女の黒髪が風もないのに逆立つと、その一部が絡み合い、次第に1つの形状を成していく。
「く……」
男は剣を地面と水平に構え直し、再び少女との間合いを詰める。
少女の右手が後頭部に伸び、絡み合う髪を掴む。
掴まれた髪の毛は何の手応えもなく『外れ』た。その時、男は少女目掛けて剣を横薙ぎに斬りつける。
次の瞬間、響いたのは金属音だった。
「何……!」
少女の右手が掴んでいた黒髪は、いつの間にか別の物に変化していた。
男が手にしている直線的な諸刃の剣と異なり、曲線を帯びたフォルムは『斬る』という行為を前提に作られ、気品すら感じさせる。
だが、唯一の例外が刃先の形状だった。滑らかな曲線ではなく、鋸状の凶悪なフォルムを形作っている。
それは攻撃対象に対し、純粋なダメージよりも激しい苦痛を与えることが優先されている、あからさまなサディズムの具現とも言えるだろう。
「私は悪魔ではなく『吸血鬼』ですから……」
少女が微笑みを浮かべる。
吸血鬼。
生者の血を啜り、自らの眷属にすると言われる夜の住人。
男は舌打ちし、噛み合わさった刃を放して距離を取る。
少女は追いかけず、先ほどまで自身の髪の一部だった鋸刀を両手で持ち直し、悠然と構える。
「いい攻撃だとは思いますけど……単調ですね。では、今度は私から……」
そう言うと、少女の顔に変化が起こる。黒かったはずの瞳が血のような紅い色に染まった。
少女が1歩足を踏み出す。その瞬間、少女の姿が消えて突風が吹いたかのような急激な空気の流れが生じた。
男の眼前に紅い瞳の少女が現れる。
驚くより先に体が動く。気付いた時には少女が繰り出した鋸刀の一撃を剣で受け止めていた。
「まぁ……」
感心したように少女が薄く笑って、そのまま数度、鋸刀を振るう。その手捌きは達人の域に達していた。
男はそれらの攻撃を必死で防ぎながらも歯噛みする。
少女の太刀筋は確かに達人顔負けのものだが、それでもまだ手加減をしている。
その証拠に先ほどからずっと微笑みを浮かべたままだ。必死で足掻く男を嘲るように。
「良い反応です。さすがはエクソシスト……」
愉快そうに言って距離を取り、無造作に構えを解く。
男が訝しく思っていると少女は持っていた鋸刀を真上に放った。
「ですが、やはりハンデは必要みたいですね」
鋸刀が空中で音も無く砕け散る。
だが、その破片はまるで意思を持っているかのように、羽音を響かせて飛び回り、少女のもとへ集まっていく。破片の正体は蝙蝠だった。
蝙蝠達は少女の黒髪に吸い込まれるように消えたかと思うと、髪の毛に戻った。
「それでは、私は左手だけを使用します。今度はあなたからどうぞ」
そう言うと少女は左手を前に突き出す。別に何かの構えではない。ただ左腕を水平に上げただけだ。
しかし次の瞬間、その五指の先端の爪が有り得ない長さに伸びる。
それはもはや人間の爪ではなく、獲物を引き裂くための鉤爪だった。
「どうしました? 来ないのですか?」
少女は無防備に立っている。だが、それは男にとって絶望感に苛まれる事である。
構えや警戒などする必要はなく、さらに左手1本だけで戦うという余裕。
少女にとって目の前の男を倒すにはそれで充分なのだ。
「……くそ」
絶望感に押し潰されそうになりながら、それでも男は剣を構え直して少女との間合いを詰める。
彼の父親は彼自身が幼い頃、目の前であの少女によって惨殺された。
あの時の恐怖、憎しみ、悲しみといった感情は今でも忘れておらず、それが絶望感を覆い隠す。
あの吸血鬼を倒さなければならない。そう誓って、男は自らを鍛えて世の闇を狩るエクソシストとなったのだ。
動かない少女に男が剣を振るう。しかし、やはり次の瞬間には少女の小柄な体躯は視界から消えている。
だが、それは承知の上だ。必死で気配を探ると背中に危険を感じた。
「そこか……!」
振り向くと同時に背後の空間を薙ぎ払う。しかし、男が感じ取ったのはひと筋の風。
(しまった……!)
その風が吹き抜けた方向――真上を見る。その瞬間、月を覆っていた雲が晴れ、再び青白い光が地上に降り注ぐ。
男は月を仰いだ。
冷たく光る満月を背負うように落下してくる小さな影。鉤爪の生えた左手とその向こうに垣間見える紅い瞳。
それはこの世のものとは思えない邪悪な美しさを持つ、月の中の闇。
少女の五指に肉を引き裂く感触が伝わる。
気付いた時には、男は悲鳴もなく倒れていた。背中に激痛が走る。
倒れた拍子に落とした剣が平らな屋根を滑り、遥か下方に落ちていく。
「ぐ……が……」
止まりかける呼吸を必死で回復させようと呻き声を上げると、口から紅い液体を吐き出してしまった。
男の背中には5つの爪跡が残っており、そこからも止め処なく紅い液体が流れる。間違いなく深手だった。
ゆったりとした足音が近付いてくる。
視界を上げると少女が傍らで見下ろしていた。
「本当に……どうしてあなた方は私を目の仇にするのです?」
口元を弓なりにつり上がらせる。それまでの薄い笑みとは違い、はっきりと見える形で少女は笑っていた。
幼い顔つきにはあまりにも似つかわしくない魔性の笑み。
「勝てるはずがないのに、どうしてなのですか?」
笑みを絶やさず、呆れたように肩をすくめる。
男が反論しようにも声が出せない。
「フフフ……痛いですか? 苦しいですか? 辛いですか?」
苦悶に満ちた男の表情をじっくりと眺め、少女は心底愉しんでいた。
「心配なさらなくても、すぐに楽にして差し上げますよ」
そう言って姿勢を屈める。
「これ以上、血が抜けると勿体無いですしね」
男は少女が何をしようとしているか悟り、必死で抵抗するが、少女は小柄な体からは想像もつかない力で男の体を押さえつける。
男の衣服の襟を裂き、露出した首筋を少女の舌が蛇のように這い回る。
「や、やめろ……」
まるで氷を押し付けられたかのような冷たい感触に男は総毛立つ。
「あら、気持ち良くありませんか?」
男の反応を愉しむように笑った少女の口の中で、異変が生じていた。
犬歯が、まるでそれ自体に意思が宿っているかのように伸びているのだ。
口外まではみ出るほどに伸びた2本の犬歯を、少女は己の唾液で塗れた男の首筋へ、噛み千切るように突き立てた。
「………!」
男にはもはや悲鳴を上げる余力さえ残されていない。
少女の白い喉が一定のリズムで鳴る度に男の体から血が抜けていく。
全身から血という血を吸い尽くされ、男の肌は少女のそれと同じように色を失った。
少女が立ち上がる。男は倒れたまま動かない。血を全て奪われたのだから当然だろう。
吸血鬼に咬まれた人間は吸血鬼化すると言われているが、それには血を吸う際に吸血鬼が牙を通して犠牲者に魔力を送らねばならない。
つまり吸血鬼は自らの眷属を選ぶことができる。
男は少女の眷属としては不適正だったので、吸血鬼にはならず、ただの骸と化した。それが幸福なことなのか不幸なことなのかは、少女にも分からない。
「ふう……」
己の欲求を満たし、満足したように溜息をつくと視線を夜空に向ける。
その瞳はいつの間にか紅から黒に戻っていた。口の外まで伸びていた牙も次第に縮小し、口内に収まる。
見上げた夜空では、相変わらず月が青白い光で地上を照らしていた。
「……綺麗」
先ほどと同じ呟きを洩らす。
だが、少女にも分かっている。所詮、それは太陽光を反射しているだけで、月そのものの輝きではない。
しかし、その輝きを彩っているのは間違いなく月であり、その美しさを誰も否定はできない。
足元の骸に視線を落とす。
彼の肌は月の光に照らされ、彫像のように美しい。自分もこのように見えるのだろうか。
そう考えると自然と少女は笑みを浮かべていた。それは年恰好相応の、あどけない笑みだった。
再び夜空の月が雲で覆い尽くされるが、それも一時的なもので、すぐに雲は晴れる。
そして月光が時計塔の平らな屋根を照らした時、そこには1体の骸が冷たく横たわっているだけであった。
―――――閉幕
###後書きなのです###
はい、そんなわけでSS書かせていただきました。蓮の花と申します。
今まで、色々とSSを書いてきましたが、実は本格的にオリジナル物を書くのは始めてだったりするのです。
しかし、改めて読み直してみると色々な作品の影響(パクっているとも言いますが)を受けていることがまる分かりですな(汗)
とりあえずこの話は物語のプロローグにあたるもので、キャラ名などは一切明かされていません。
というより、この話を書いた時点ではまだキャラ名が全然決まっていなかったというのが本当です(^▽^;
次回も頑張って書きたいと思います。乞わないご期待!(ぉ
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